けれどたとえそれを知らなかったとしても君はきっと、 






いつもと変わらなかったはずの日常を異色で塗り潰すことはいとも容易い。
そしてそれを受け入れることさえ彼には何の抵抗もない、むしろそれこそが日常だった。
近付く気配、切れる空気の音、穏やかなオレンジからそれは殺意のレッドへレッドへレッドへ

RED

「っ・・・・ァ、はッ・・・・」

赤は彼の爪から染まり指先を蝕み掌を舐め腕を這って肘の辺りで止まった。
そして彼の目前――寸前には真後ろにいた――にいる人物の口腔から、溢れかえる。
ごぼり。びちゃ。ぼと、ぼと。酷く淡々と聞こえる音。
彼――いくつもの呼ばれ方をするが最初に戴いたそれを少しだけ大切にしている――涼羽は、ゆっくりと、だが生き物としては急速に温度を失っていく人物の胸部から腕を抜いた。
溢れ出る血液が縋るように涼羽の方へ流れてくる。
だがそれへは目も向けない。
数分前までは友人で、数秒前までは裏切り者で、そして今は役立たなくなった人間で、最後にただの死骸になろうとしている人物の、まだ開いている双眸を見ていた。

「――単なる軽装に。武器はナイフ。オレにとってはガラクタ。
 身体能力の差、経験の差、一瞬の判断・・・・・迷いの差。すべて致命的」

赤い腕をだらりと下げたまま述べる声はあまりにも平淡で無感情。横たわる人物の記憶の中にある、彼の笑顔、困り顔、拗ねた顔などすべて偽りのように。
霞んでいく。

「オレ・・・・・そのくらいなら、素手でも殺せちゃうんだよ」

赤い腕もその前に横たわる身体も冷え切っていく。

「・・・・・死ぬって、どんな感じ? 死ぬって、こわい? 死ぬって、」

詰まった声の代わりのように。感情のない色違いの瞳から“ ”が零れ落ちる。

「――涼羽!」

呼ぶ声がする。ただそれだけを感じ取って涼羽は振り向いた。
アカツキ。紅月。
紅い瞳。綺麗な色だ。涼羽はじっとそれを見た。瞬きをする。また零れた。
何を落としたのかと、地面を見る。すると冷え固まった汚い赤色が目に映った。反射的に自分の腕を見ようとする前に、伸びてきた別の腕が涼羽の両肩をつかまえる。

「・・・・・・お前は何ともねぇな。大丈夫か」
「何ともないから大丈夫」
「泣いてんだろ」
「・・・・・思い出した、“涙”。そっか。涙。オレ、今、嬉しい?」
「バカちげーよ」
「涙、嬉しいときに出るって教えた」
「嬉しいときも、な。それは、」
「裏切られた。から」
「・・・・・ん、だから、」
「裏切られたって、思えるくらい、好きで、大切だった人がいたことが嬉しい?」
「・・・・・・・・」
「もうなくし、」
「違うっつの。大切だった、じゃない。嬉しくもねぇ。大切な人が、裏切った」
「?」
「――悲しいからお前は泣いてんだ」

大切だった(大切な)死骸の(人の)傍でやりとりされる静かな会話。
それがふつりと途切れ、暫くして涼羽はただ黙り込んで頷いた。
それっきり薄墨色の髪が揺れることもなく、ぴくりともしなければ顔を上げもしない。涼羽、と怪訝を滲ませた声が涼羽の頭上に降る。
ぽた。
ぽた。ぽた、ぽた、涙と呼ばれるものが次から次へと落ちていく。
紅月は口を閉ざしてそれを見た。
しかし何かおかしい。
震えを帯びてきた手、押し殺すような呼吸、ついには漏れた声。

「ぅ、あ、ああ、嫌だ、嫌だ、あ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だどうし、どうすれば、」
「おい!」
「嫌だ、う、ぅあ、嫌だこわい悲しいは嫌だこんなの感じたくない嫌だ紅月、あか、」

いっそ気絶させてしまおうか。
そうすれば一時的にでも――紅月が思考したその時、


「どうしよう、オレ、きっと紅月でも殺せる」


嗚咽を零して、泣きながら。
それが何よりも悲しいのだと(どうしようもない事実だと、わかりながら)嘆いている。そしてそれは今この足元にある死骸を見た時よりもきっと悲しいと。悲しんで泣きながらその悲しみを恐怖している。

ああ、これはコイツに教えていい感情じゃなかったんだ。

悲しみもそこから生まれる恐怖も涼羽の中を掻き乱して更に歪ませていくだけ。
狂いに拍車をかけるだけなのだと、今更気付いてももう遅い。

「・・・・・安心しろ、殺させたりしねーから。何も考えないで気が済むまで泣いとけ」

身体を包む両腕(いつかはなくなる)。
温度のある声(いつかはなくなる)。
そっと触れてくれる存在(いつかはなくなるのだと、わかっている)。

(知らなければよかった 何も)


零れ落ちていくしかできない、

こんな力なものなんていらないのに。



fin.




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