アズマ
アズマは初めて出会った時から“アズマ”だった。
「君、強いんだね。中学生相手に勝つなんて」
薄茶の髪、白いシャツ、ジーパン。至って普通の格好で同じような背格好、同い年くらいの少年がガードレールにもたれかかっているだけだった。でも何かが違う。存在感。笑みを浮かべているだけの表情が妙なものに見えた。
「その子犬一匹を助けるために怪我までして……そんな人間が本当にいるとは思わなかったな。君は本の中からでも出てきたの?」
どの口がそれを言うんだと思った。お前の方がよほど奇妙だと反発しかけたが、どこが奇妙なのかと問われればきっと答えられない。雰囲気? オーラ? 佇まい? 言葉で表すにはどれも今一つ物足りない。
「お前、何だよ」
あの時はそう尋ねるのが精一杯だった。
ガードレールにもたれていた身体がきちんと立ち上がって、それが標準設定であるかのように浮かんでいた笑みがさらに深くなるのを見て。妙に落ち着いた感じのある声であいつは言った。
「アズマ」
ざり、と砂利の踏み躙られる音を覚えている。
そして怖いほど無風で静かだったことも。
「俺はアズマっていうんだ。よろしく、水上想士くん」
どうしてかあいつは最初から俺のことを知っていて、でもまるでそれが当然だと俺まで思い込まされるような口調だった。つーか、数日経ってまた会うまでは本当にそう思い込んでいた。アズマ。謎、不思議、不可解、そんな言葉とイコールにできるような存在。
そして再会した時になぜ俺の名前を知っていたのかと問うと、
「君のお父さんはL8R G8Rのオーナーだろう? 俺の父親は君のお父さんと知り合いなんだよ。だから君のことは聞いていたんだ、少しね」
エルエイトアール・ジーエイトアールと書いて、レイターゲイター。俺の親父が経営しているバーの名前。あの時はすぐになるほどと納得してしまったが、後から親父に「アズマに会った」と話すとやたら渋い表情をしていたので、たぶん親子二代に渡って(もしかして祖父もだったのかもしれないが)アズマという存在に苦労をかけられることを見越していたのだろう。
「アズマって何歳?」
「君と同じ歳だよ」
「じゃあ十一か」
うん、なんつってあいつは微笑んでいたけれど今考えてみれば適当もいいところだと思う。もし本当に同い年ならあいつも今年で二十五歳になるんだろう。
でもアズマという人間はずっと昔から老獪な狡猾さを備えていたし、かと思えばそこら辺の子供よりもよっぽど純粋な残酷さを持ち合わせてもいた。出会ってから十四年ほど経った今でさえあいつのことはよく解らない。
「俺の名前はね。本当はアズマじゃないんだ」
中学三年生の時だったか、唐突にそんな告白をされた。
それまでアズマというのが苗字か名前かも考えずに、ただ、アズマと呼んでいたことをどうして不思議に思わなかったのだろう。その時は急に気付いてしまった事実にそう愕然と思ったが、思い返してみれば俺はただ無意識に、あいつの引いていた強固な一線を遵守させられていただけだった。
お互いのパーソナルデータに干渉するような話はうまく避けられていたし、もともとあまり喋る方ではなく聞き手に回ることが多い俺と、口達者で話すのも聞かせるのもうまいアズマとではどちらが会話の主導権を握るかなんて最初から決まっていた。
「なんで偽名なんか」
「“本名を持っていた俺”は生まれてすぐに殺されてしまってね」
普通だったら笑い飛ばすような話だ。でも、あいつが普通という枠にあてはまらないということが純然たる事実としてあった。
俺の親父が経営していたL8R G8Rも普通のバーじゃないことは昔からなんとなく気付いていて、だからあいつがそんな親父と知り合いの息子ってだけでバーの存在を知っている、それだけで一般人と一線を画していることはうっすら勘付いていたせいもある。
とかく俺はなんの躊躇もなく納得して「そうか」とだけ返した。
ただ何かとても虚しかった。
最低でも小学生の時からあいつの名前は偽物で。
どこに住んでるかも知らない。
偽名はアズマ。やたら甘い物が好き。たぶん俺と同い年(きっと適当だ)。
それ以外に知っていることは何も無い。
学校へ通っている気配がない理由も。
アズマの笑み以外の表情さえ知らない。
俺は、何も。
「また何か悩んでるのかい? 最近増えたね、お年頃ってやつかな。それともまた無理難題を頼まれたとか? 君は不器用なくせに面倒見がよすぎるから大変だ。要領は悪いし理屈より感情が先走るし手抜きもできない、そのくせお節介で頼り甲斐があるように見えるんだよね。はは、考えるほど苦労してそうだなぁ。……ああ、今回は真剣に悩んでるみたいだ。反応が悪い。どうかした? 言ってごらんよ」
本当に、あいつの方はムカつくくらい俺のことをわかってるんだよな。腹立たしい。
あのあと俺はあいつになんて言ったんだったか。
よく覚えていないが、アズマの表情からほんの数秒だけ笑みが消えたことが今でも印象強く残っている。虚ろな表情とでもいうのか、後にも先にもあいつのそんな顔を見たのはあの一度切りだ。そしてあいつは再び笑顔を戻すとこう言った。
「――僕は僕の偽者しか存在しないんだ」
もう忘れてしまったが、なんとかっつー童話のクラウンのセリフだとアズマは後に付け足した。なぜそんな話になったのか今では思い出せない。逆にそのクラウンのセリフだけはどうしてか忘れられそうになかった。
順調に過ぎていった季節にあわせて俺は高校生になり、そしてあいつはやっぱり高校生ではなくアズマのままで、どこの学校にも通っていないようなのに俺よりずっと頭がいいというやっぱりムカつくやつだった。
なんであいつみたいなのがこの世に生まれてしまったのかと時折思う。
こんな世界じゃあいつには狭くて窮屈で、だから玩具箱のようにしか見えないんだろう。
アズマは一見すると穏やかで優しくて、爽やかな好青年そのものだ。軽い女から真面目な女、どころか純情そうな中学生からご高齢の婦人にまで幅広くから好まれる。しかし何人と付き合おうとあいつが本気になった相手は誰一人いない。しかもまるで人間観察をして遊んでいるだけ、というような付き合い方だった。あいつの恋人に対する評価はいつも「面白い」か「つまらない」の二択のみ。そのうえ圧倒的に後者が多く、たとえ前者だったとしても飽きれば捨てる。その繰り返し。
「このごろ毎日が楽しいよ」
だからあいつの口からそんなセリフを聞いた時は、正直驚いた。
たしか二十歳になった辺りだったと思う。俺はとうにL8R G8Rを継いでいて、バーのマスターとしてアズマに接客していた時だった。「なんでだ?」グラスを磨きながらそう尋ねると、ただ一言「いい遊びを見つけたんだ」とだけ返ってきた。直感が“ろくでもないことなんじゃないか”と告げる。そしてそれはアズマの眼を見た瞬間に確信に変わった。
「すごく面白い」
陰惨な眼差し。どこか凶悪さを感じる笑顔。
「何に手ぇ出した」
アズマはクスクスと笑った。
「君と同じだよ。父親の跡継ぎなんだ、俺は」
そう言われて俺はまた俺が知らないことがある事実を思い出す。アズマの父親。俺の親父の知り合いなのはわかっていたが、何をやっている人なのかまでは知らなかった。それを知るのは二年後のことだ。あいつがこの時やり始めていたことも。
知るのはすべて、二年後。
ある雨の日、あいつは突然知らない奴を一人連れてきて言った。「この子を雇ってよ」。そいつはパーカーの帽子を深く被らされていて顔は見えなかったが、体つきからしてとても成人しているようには見えない。当然答えはノー。酒を扱う店で未成年を雇うなんて言語道断だ。でもあいつは全く引き下がる気配はなく、ただ笑顔で「それと苗字も貸してあげて」とまで言ってきた。断らせる気なんか微塵もないんだ、あいつは最初っから。
「何なんだよそいつ」
胡散臭い、と思いながら見下ろしたそいつの、最初の姿の記憶。
ところどころ土で汚れた服。頭から雨に濡れていて、雨水を滴らせながら何も言わず動かずでその場に立っていた。するとアズマが「名前は涼羽っていうんだけど」そいつ――涼羽の被っていたフードをとって、「わかるだろう?」顔をあらわにさせた。
青と灰色の視線。
まさかと思った。バーに来る客の中の何人かが話していた、都市伝説のような逸話。本当に存在するのかと半信半疑――いやほとんど信じていなかったモノ。オッドアイのことではない、問題はそれが逸話と同じ“青い左眼と灰色の右眼”であったことと“アズマが連れてきた”という事実。『わかるだろう?』という言葉が示す“名”。
「…………」
まだOPENにしたばかりだったサインボードをCLOSEDに直してきてから、二人を店の二階へと招いた。そして聞いた話は信じられないことばかりが並び、本気で眩暈がしたのを覚えている。
アズマが涼羽と出会った経緯。それを話す上でアズマが麻薬を扱う仕事(犯罪と言ってもいい)をしていることを告白し、またアズマが涼羽を連れてくることになった理由について涼羽の身の上話を聞いた時は、夢でも見ているんじゃないかと疑った。そろそろ『ドッキリでした』というプラカードを持った仕掛け人が出てきてもおかしくないと思ったくらいだ。むしろドッキリだったとネタバレしてほしい。しかしそれは叶わず、非現実的な現実は今も俺の傍に存在している。
まさか斗伽の人間が目の前に現れるとは。
『斗伽の人間には関わるな』
ある客が言っていた科白。見た目は普通の公務員らしき男がそんな話をしていた。割とよく訪れる客で、いつも一人で静かに飲んでいたのだが、珍しく二人で来たかと思えば深刻な空気で会話していたのを今も覚えている。……数日前に亡くなったと聞いた。
そして現在、麻薬の王はカウンターでマッド・スライドを飲み、斗伽の人間は硝子の皿に果物を盛っている。仕上げに練乳がたっぷりとかけられたものを受け取り、アズマへと出した。
「ありがとう。ところで、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
練乳でほとんど白くなった苺が一つ、アズマの口の中に消えていった。
「涼羽君のオトモダチについて少し知りたくてね」
ガッ、という音が響いた。見れば、涼羽の持っているアイスピックが見事にブロックの氷に突き刺さっている。そして氷よりも冷たい眼差し。まったく、まだ十七歳のくせしてなんつー眼をするんだこいつは。
だがバーとしてではないL8R G8Rの方針は“訊かれれば答える”。
加えて、訊かれていないことは決して口外しない。この世のどんなことを聞いても。なおかつ答え方は器械のように。私情を挟まず事実だけを述べ、質問内容に該当することがなければ閉口する。そこは質問者がいかにうまく尋ねるか、そしてL8R G8Rで洩らされたことのある話かという運もかかってくる。
アズマは涼羽の方に一瞥を投げた後、すでに答えを知っているかのように言った。
「 ?」
氷の割れる音がした。
fin.
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アズマのことをちょこっと、バーのことをちょこっと。
小学生のころから偽名を使ってるようなやつですアズマ。
ユリヤ
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