ゾルレン【Sollen(独)】
[哲]当為。「・・・しなければならぬ」の意で,存在するもの(ザイン)に対して,人間のなすべき必然をさす。「あること」(存在)および「あらざるをえないこと」(自然必然性)に対して,人間の理想として「まさになすべきこと・あるべきこと」を意味する。
⇔存在⇔不可不
ゾルレン
「君は誰とでもキスできるよね」
ギシ、とソファが軋んだ。アズマが膝を乗せたそこが体重を受けてへこんでいる。オレの両脇に手をついて人の顔を見下ろす目の前の男は、いつもの爽やかぶった仮面はどこへやら、酷薄という言葉でも似合いそうな笑みをたたえていた。ガラクタを見る時の眼だな、と何となしに思う。腹は立たなかった。この男はこれが本来の姿なんだから仕方ない、むしろ普段の繕われすぎた表情よりよほどマシというものだ。
「感情や気持ちを表す行為のはずなのに。君は薄っぺらだなぁ」
くつくつと笑う声と共に、間近にある喉仏が細かく震える。嘲笑っているのかとも思ったけれど、単なる作り笑いだった。こいつも大概なにがしたいのか解からない。
「仕方ないことだとは思うけどね。俺がそういう行為を道具にしろって教えたんだから。おかげで巧く生活できているようだし。もし君がキスやセックスに心を見出したら身動きができなくなってしまうんだろうな。きっとこれまでしてきた事を後悔して鳥肌がたって吐き気がして自分がこの上なく汚く感じることができるようになるよ、でもね」
何か。さっきから痛いところに触れられている気がする。言葉で犯すのはアズマの得意分野だと理解していても、耳慣れたこの声を聞いていくほどに、頭の中の片隅に追いやって忘れた振りをしていた黒いものを穿り返されるような気分になる。反射的に目線の先にある喉に手が伸びていた。でも喉に触れる寸前で手首を掴まれ、まるで空き缶でも投げ捨てるように膝の上へ手を放られた。自分の太腿に片手があたる感触。まったく力を入れずにいると手はそのまま太腿の横へ落ちた。ガラクタみたいだと思った。
「どんなに無垢な赤ん坊でも成長していくにつれ様々なことを覚えていく。そして俺は君が無垢で無知で絶望的に一辺倒でいられたあの斗伽の家(トリカゴ)から出してあげた。涼羽君はもういくらでも外を見渡したはずだ……そこでね。仮に君が意図せず無意識に学習し理解していたら?」
そんなことは言わなくていいのに。
「本当はキスやセックスに伴うべき感情も道徳も知っているんじゃないかと考えたんだ、だって君はあいにくきちんと働く前頭葉があってそこら中に人間がいる環境があって友達とさえ言えるような人間関係も作るまでに至った、がら空きだった君の心は大いにたくさんの物事を学んだろうね」
知らない。そんなことは知らなくていい。
「君は無意識に求めているんじゃないかい? 外に出てどんなものを見た? 綺麗なものがたくさんあっただろう、そして穢いものも。いや穢いものは見慣れていたよね、斗伽の人間なのだから。綺麗なものは初めて見たかい? 知ったかい? ……欲しくなった?」
――キレイなものを見て、キミの穢れに気がついたかい。
知らない。知らない知らない知らない。そんなこと知るもんか、何に気がつくって? キレイなものってなんだよ、そんなもの知らない。オレはそんなこと知らなくていい、それでいいのに、どうしてこの男は何もかもわかったような顔で余計なことを言ってくるんだ。知らなくていい、――知らなくてよかったのに、
「でもがむしゃらな君を誰も見はしない。誰からも理解されないよ」
ああ、
知ってる。
可哀想にね、――が欲しかったんだよね、でも――はいつもキミ以外の誰かにしか与えられないよ、キミには分不相応だから。それでもまだ求めるかい? 不自然なくらい誰もかもに手を伸ばして、そうしてまた届かない事実に虚ろになって。
それでもまだ求めるのかい?
「理解なんかいらない」
ようやく声が出せた。ほとんど勝手に出たようなもんだけど。その勝手に出てきた声は考えるよりも先に口からどんどん逃げ出して、また勝手に言葉を紡いだ。
「ただ応えてくれるやつがいればそれで、」
こたえ。なんのこたえを欲しいというのか。ちがう、何に応えて欲しいんだ?
矛盾する感情と思考。思考は感情を否定する。感情は思考を壊していく。
「 」
なんて言ったのか、自分の口から出たはずの言葉なのにわからなかった。あまりに無意識に出た言葉だからかもしれない。まったく意識しないで喋ると、何を言ったのかもわからなくなるもんなのか。
アズマはよくわからない表情で笑っていた。少し気に食わなさそうな、でも納得を強いられているような、どこか歪んだような笑み。強いたのはオレだろうか。珍しいものを見た気がする。
「届かないものばかり求めて、楽しく無さそうな生き方だね君は」
心底つまらなさそうな声で言ってアズマはジーパンのポケットから薬のシートを取り出した。ブチブチといくつかが押し出されフィルムが破れて出てくる。それが口の中に放り込まれるのを見て、何粒も噛み砕かれる音を聞いて、それから口付けられた。
苦い。
『しんでもしあわせだとおもう』
fin.
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最後に飲まされたのは麻薬だったかもしれないし、
ただの睡眠薬だったかもしれないし、
毒だったかもしれない。
ユリヤ
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