涼羽の左手は何の迷いもなく、ギリ、とカヲルの首を締め付けた。
今、完全に涼羽の自我は多すぎるウイルスのプログラムに呑みこまれている。
――削除。
そのたった二文字の単語がカヲルの脳裏に浮かぶ。けれどすぐに打ち消された。
できない、と。カヲルは苦しみに耐えながらそう思った。
苦痛に息絶え絶えになりながらも、洞窟を侵しているウイルスは消しているのだが。
嘲笑するような眼差しを向けられても。
きつく首を絞められても。――涼羽だけは。

「ッ・・・・・・スズ、・・・ちゃ・・・・」
「壊すために生まれて。侵すために動いて。
 何ものからも拒まれては跡形もなく消されるだけ、の、」

手に込められる力が増し、皮膚を裂いて食い込んだ爪がカヲルに血を流させる。
更に侵蝕は加速してカヲルを侵し、少し息を吐いたのと同時に喉から血が噴き出た。
咳き込めば咳き込むほど血は溢れてくる。
それを口元だけは笑みをかたどりつつ、恨むような眼で涼羽は言った。

「そんな俺のどこに、存在する意味がある?」

最初から作らなければいいのに。作らなければ作らなければ作らなければ。
最初から存在しなければよかったのに。

でも壊したい。壊したい。壊すしかできない。滅茶苦茶に、破壊を。

「・・・・・・なんで俺を真っ先に削除しないわけ? 周りばっか消して。
 生きる気ないの? ちゃんと存在する資格があるクセに。ねえ、」

それなら壊させてよ、カヲル。

――ああ。哀しんでいる。
必死で呼吸をしながら、カヲルは涼羽の頬へ震える手を伸ばした。
だが触れる寸前でその手は涼羽の手によって弾かれる。
そして絡まるコードごと首を絞める手が、カヲルの身を洞窟の壁に叩きつけた。

「あ゛ッ・・・ぐ・・・・!!」

じっとりと首の後ろの襟が濡れる感触があった。
打ち付けた後頭部が切れて流血してるのだろう、とどこかが冷静に考える。
苦悶しているカヲルの顔を愉快そうに見ている涼羽から、それでも眼を離さなかった。

「消しなよ、俺を。楽になれる。お前も、俺も。どうする?」
「ッは、・・・・っく、ぅ・・・・・涼・・・羽・・・・・・ぁ」
「壊れたくないだろ? 痛いよな。消えてほしい? 憎い? いらない? 嫌いに、」

すう、と。滑るように、涼羽の橙色をした右眼から涙が零れ落ちた。

「・・・・・・なに、バグ? 鬱陶しい」

心底嫌そうな顔をして、涼羽はおもむろに空いた手で右眼を抉る。
ボタボタ。ボタボタ。千切れた視神経と共に溢れ出す血液。
頬を伝い、涙のように流れていく。ボトリと捨てられる眼球。赤く染まった両手。
そんな涼羽を見つめながら、不意にカヲルが言った。

「・・・・・自分を・・・・ッ傷つけるようなこと、・・・言わないで」

涼羽の残された片目がわずかに見開かれた。
苦しげに眉を顰めながらカヲルは、尚も続ける。心からの、言葉を。

「・・・ッ僕は消すしか・・・涼羽たちを殺す事しか・・・ッできないかもしれない・・・ッ
 でも・・・生きていたいと・・・誰も傷つけたくないと・・・・心が痛いと・・・ッ涙を流すの・・・ッ
 ・・・涼羽は・・・ッ生きていたいと涙を流すのッ・・・」

まるで、眼球をなくした右眼から流れる血を、涙のようにカヲルが拭う。
必死で伸ばした手は今度こそ弾かれなかった。
だが拭っても、拭っても、流れていく血液は留まることなく。
それでもカヲルは片手を血に濡らしながら、思い返していた。


(――もう・・・誰も傷つけたくなかったのに・・・・・・)

大切なものを壊し終えた後の光景の中で、絶望した瞳が残骸を見ている。

(どうして、(ゆる)してくれるんだろう――壊した、のに・・・・・優しすぎる、よ)

優しくされるほどに苛まれる罪悪感に、力ない笑みを宿した唇が泣きそうに呟いた。

(っ・・・・・おれ、生きてても、・・・いいのかなぁ・・・・?)

幸せになりきれない笑顔で流す涙は、いつも血の上に落ちていく――


「そんな人を・・・本当に殺す事なんてできないッ・・・
 精一杯その人が思う理想へ近づける為・・・一緒に努力して・・・一緒に生きて・・・
 ・・・可能性を信じて・・・生きたいと思うその強い意志を信じて・・・ッ」

首が痛む。喉が痛む。身体のいろんな場所が、絶え間なく痛み続けている。
けれどそれよりも、何よりも、痛むのは胸の奥のずっとずっと深いところ。
それはきっと涼羽も同じなのだろう――思い、カヲルは声を振り絞った。

「一人で平気だと思ってた・・・、大丈夫だと思ってたッ!
 でも・・・・もう駄目・・・ッ一人じゃ立ち上がれない・・・涼羽が助けてくれないと・・・
 ・・・涼羽の優しさを、存在の大切さを、人一人の重さを、知ってしまったから」

大好きだよ。大切だよ。傍に、いたいんだよ――


「・・・・涼羽が、居なくちゃ・・・生きていけないよぉ・・・!!」


涙があふれて止まらなかった。まるで涙そのものが涼羽を求めているかのように。
胸が痛い。強い想いが内側からこみあげてきて止まらない。
――自分を傷つけないで。自分に絶望しないで。
生まれた意味がないなんて、そんなこと絶対にないから。哀しまないで――
強く強く抱きしめる。まだ首を掴む手は外れない。それでも。

「・・・・・・なん、で? なんで。なんで。なんで!! そんな言葉ッ・・・
 今までの奴らみたいに、消えろって言えばいいだろ・・・・
 裏切り者だって突き放せばいいだろ・・・ッ!?」

ギシリ、と軋むような音が聞こえるほどに強く手に力がこめられる。
空いた右手は優しくされるのを恐れるかのように、カヲルを引き離そうとしていた。
それでもカヲルは必死に腕を回す。どんなに強く想っているかを、伝えるように。

「ハッ・・はっ・・はぁ・・・あぁ・・そんな・・言葉・・・あるの・・えへ・・へ・・・思い・・つかなかっ・・・
 僕の中・・・涼羽で・・・いっぱい・・・消え・・られたら・・・何にも・・・なくなっちゃ・・・
 ガッ・・ぁ・・・・・僕の前から・・・っは・・居なくなられたら・・・・・・その時は・・・
 ・・・・・裏切り者って・・・叫んで・・・あげる・・・ははっ・・・」

笑った拍子に、ぱたたっ、と涼羽の肩に吐血が散った。
だが、どんなに血を吐こうと、身体が侵されようと、知ってほしい想いがある。
もっと。もっと。知って、理解して。
――そしたらほんの少しでも、生きていて幸せだって思ってくれるかな?

「涼羽が大事すぎて・・・涼羽が居なくなるほうが・・・よっぽど・・・ッ怖くて・・・・・
 あ・・・ぁ・・・ここに居て・・・ここに居て・・・ここに居て・・・ここに・・・居・・て・・」

繰り返し、繰り返し。
どんなに必要としているか、どれほど自分にとって重要な存在なのかを。
――――伝えたい。

「どうして・・・そんなわけない、・・・・・なんで? ここまで必死に・・・お前・・・・、
 俺みたいな存在がそんな大事なもの――みたい――に――なりえ・・・る・・・・ぁ・・」

ずる、と力が抜けたようにカヲルの首から涼羽の左手が滑り落ちた。
煩わしげに「邪魔、すんなッ・・・・コイツが、いなけれ――ば・・・」と涼羽が呟く。
覚醒しようとしている涼羽の元の自我と争っているようだった。
だんだんと表情からも力が抜け、それから不意に水色の瞳が光を宿す。

(――大切なものさえなければ――全て躊躇なく捨てられた――のに)

「・・・・・・カヲ、ル?」

眼に映るものが信じられないというように、恐る恐る名前が呟かれる。

「大切なもの・・・・見つけたよ・・・・お兄ちゃ・・・・・・はぁッ・・・
 すず・・・ちゃ・・・?・・AI・・・・・もど・・て・・・・きた・・・?」

いつも。いつも。次に眼を開いた時には、大切なものが傷ついている――


傷つけている。



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